「東京北部小包集中局のこと」・・・山谷ブルース(岡林信康)の世界・・・

東京北部小包集中局とは、一九六七年昭和四十二年十月二日に郵便物増加で逼迫して来た東京中央郵便局から、小包分配・差立て事務の一部を移管して、台東区清川に設置され、一九九〇年平成二年八月六日に廃局されるまで、東日本及び東京都宛非速達小包を取り扱った小包専門局であった。東京南部小包集中局と云うのも他にあった。

昭和四十五年頃には、大学生のアルバイト先として広く知られており、大学学生課には毎年夏季バイト募集の案内が来ていた。
千葉県習志野市津田沼の駅前大学CIT一年生の夏に、柔道部の長崎合宿費用を調達するため、二週間ほどのアルバイトのため、下宿先の習志野市鷺沼台から通ったものだった。
鷺沼三丁目から乗車した京成バスを京成津田沼駅で下車後、
京成電鉄・急行上野行に乗車。
京成津田沼―谷津遊園―センター競馬場前―京成船橋―京成西船橋―東中山―京成中山―京成八幡―市川真間―国府台―京成小岩―京成高砂―青砥―お花茶屋―堀切菖蒲園―京成関屋―千住大橋
千住大橋駅で下車して、国道四号線日光街道に入り、千住大橋を渡って南下し、交差点で国道四六四号線吉野通りへと左折し、国鉄南千住駅横の踏切を渡り、泪橋交差点で明治通りへ左折して暫く行くと、東京瓦斯の大きな丸いガスタンクが三基見えてくるのだった。
ガスタンクの手前の、通りを隔てた向い側にある、七階建ての新築の立派な建物が小包集中局なのであった。
冬至は高度成長期時代の真っ只中で、この山谷地区(と後で知った)には全国から集まった日雇い労務者が溢れており、又、この労務者達を相手にした、木賃宿、大衆食堂、雑貨屋、古着屋、立呑み屋などなどが道路沿いに軒を並べて居たのだった。
通りすがりに見る料金表示や値札や価格は、驚くほど安いので怪訝に思われたが、これが山谷価格なのだと、後から納得したものだった。
募集されてるのは夕方から翌朝までの夜勤のアルバイトで、その出勤・退勤途上に酔っ払いが路上のそこここに転がってるのは異様な光景なのだが、サラリーマンなどの通行人は見慣れた当たり前のことの様に、一向に気にも留めずに通り過ぎているのだった。
事情を知らないよそ者にとっては、行き倒れではないのかと、一瞬、ギョッとドキッとする光景なのだが。
仕事にあぶれて酒浸りなのか、その日の稼ぎをみんな酒に使い込んで酔い潰れているのか。
日雇い労務の手配師の周旋屋・斡旋屋が早朝から日雇い労務者を呼び集めてトラックに載せて現場へ連れ去って行き、後には仕事のあぶれた労務者達が残されるのが日常茶飯事の光景なのだった。
自分の目の前に、岡林信康の「山谷ブルース」の世界が広がっていたことに気付いたのは、鈍感にも、暫く経ってからのことだった。
・・・今日のお、仕事わあ、辛かあったあ、あーとわ、焼酎うを、あおるだけえー・・・

数基ある巨大な小包選別機が、その日の膨大な小包を選別し終わって、一斉に停止した夕刻後に、出来た小包の幾つもの大きな山を、手作業で配送専用郵袋麻袋に詰め込むのが、日勤から引継いだ、夜勤の仕事となるのだった。
闇雲に嚢一杯に詰めても、口が閉じられないし、運ぶには重過ぎるから、そこは適当な重さ、嚢に六分位に止めるのがコツなのだが、世間知らずの学生なもんで、効率上げるために嚢一杯に詰め込んで、持ち上げられないほど重くなって仕舞い、後から先輩作業員に叱咤・冷笑され、何度も遣り直しをさせられたものだった。
夕方から作業始めて交代で仮眠取りながら翌朝までの作業なのだが、兎に角、詰めても詰めても小包の山が一向に減らない様に見えるから、軽口叩いたり、口笛吹いたり、鼻歌交じりだった始めの遣る気も元気も、疲れが溜まって来るにしたがって、口数も消え失せて来て、後は無口で只々黙々と作業を続けるだけの、可哀相な状況と成って来るのだった。
これが労働と云うもんだ、と身に染みてしみじみと分った時であったのだ。
兎に角、目に見えて山が減る程の作業の進捗がないと休憩・仮眠に入れないから、セッセとやらなくてはと頭では解っていても、不慣れな肉体労働の疲れと一向に減らない小包の山の前では、何も考えられずに脳みそを腐らした儘、ただダラダラと、怠惰に作業を続けるしかないのだった。
けれども、苛立った先輩作業員が、お前ら、この山を片付けないと、いつまで経っても休めないんだぞ、と脅しを掛けても、その時だけはテキパキと作業の手が早まるが、暫くすると、そんな脅しにも不感症になってしまって、何の手応えも無い、何の反応も無い、無能な輩に戻って仕舞うのだった。
それでも、時間の経過と共に、未明には小包の山が少しは減って来ると、先輩作業員からやっと仮眠の許可が出て、別室の二段ベッド部屋へ行って空いてるベットに倒れ込んで、ぼろきれのように眠り込むのだった。
二時間程度の仮眠の後、社員食堂で朝飯を食ってから、重い体を引き摺りながら帰宅と云うことになる。
正面玄関を出た処で、向いに異様に大きな丸いガスタンクを仰いで、変な性的興奮を覚えながら、目が眩む朝の光の下を重い体に押し潰されそうになりながら、トボトボと前日来た道を戻って行くのだった。
出勤時に感じた、山谷の光景や道端に倒れ込んでる酔っ払いの異様な姿には、最早、何の感情も覚えない無感覚状態となって、出勤して来る人々の流れに逆らって、ただひたすらに千住大橋駅へ歩みを進めるのは、負け犬が尻尾を垂れて住処に戻って行く姿に似ている。
ボロボロになってやっとの思いで下宿に戻り、熟睡・食事などして体力が回復したら、又、再び夕方には出勤することになるのだった。
短期間のバイトだからこそ出来る、割増賃金のキツイ仕事なのではある。
本格的な肉体労働のバイトに、辛うじて挫折もせず、何とか二週間余りの勤務をこなして、
柔道部長崎合宿行きの旅費と資金が出来たのだった。
世間知らずの生意気な学生にとって、山谷のドヤ街の中で働く、と云う厳しい現実社会に向き合う、得難い経験ではあったが、一方では、二度とこんな仕事はしたくない。
就職する時は、もっとましな、サラリーマン稼業を選びたい、と強く心に思ったのだった。

国鉄南千住駅傍には小塚ッ原刑場の刑死者の菩提を弔うために建立された首切り地蔵がある延命寺は史跡小塚原刑場跡で以前はすぐ隣にある回向院と同じ敷地だったそうな。小塚原刑場との境を流れる思川に架かっていたと云う泪橋とは罪人がこの世との別れであり、身内の者には今生の別れの場だそうだが、何とも悲しい名称ではないか。「涙」じゃなくて「泪」なのが何とも悲哀を表すに適している。
当時は知らなかったのだが、小包集中局からの帰路に泪橋交差点で右折せず真直ぐ明治通りを進むと、土手道にぶつかり三ノ輪交差点に進む。
この土手道が、かの柳橋から舟で隅田川から山谷掘りに入り土手で陸に上がって進むと吉原大門に辿り着き、中へご案内と云う俗曲に出て来る処とは何とも艶っぽい。
この吉原大門の前に今も見返りの柳があって、相方の遊女を思い出し思い出し帰ったとは何とも言えぬ男の悲哀を感じる。
この直ぐ北側に土手の伊勢屋と云う老舗の天婦羅屋があり、創業が
その隣にこれも老舗の桜鍋の中江がある。
吉原の直ぐ北側には樋口一葉旧家・記念館がある。
その直ぐ西には酉の市で商売繁盛繁昌の熊手で有名な鷲神社と鷲寺の長國寺。
土手道を南下すると馬道に繋がり、更に南下すると浅草寺境内西側の二天門へ通ずる横道に出会う。
浅草寺
浅草

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